論理のある推理小説は見当らなかったから、西洋流の作品を書く 立した。だから乱歩としては、この大先達にはじめて会って、話 ためには、アメリカに渡「て英文で発表しなければと、真剣に考をするのを楽しみにしていたのだが、大阪在住以前の作は一体に えていた。 未熟で、話をするのも厭だとはっきり言われた。初期の作品に今 最初の勤め先をしくじって、温泉場を放浪し続けていたとき、 なお執着を感じていた乱歩は、話が進めにくくて困ったといって 伊東の宿のつれづれに、ふと手にしたのが潤一郎の「金色の死」 であった。乱歩はこれがポーの「アルンハイムの地所」や「ラン ポーによって創始された推理小説が、わが国にも普及するよう ドアの屋敷」の着想に酷似していることにすぐ気づいた。これが になったのは、明治二十年以後の黒岩涙香の成果である。かれ一 大正六年の話だから、作品はすでに三年前に発表されていたので流の翻案の巧妙さが、当時の読者を魅了して、当時のジャーナリ ある。乱歩は二十歳のころ、自然主義文学を読んで面白くないもズムを席捲した。その原作はフランスのデ「一・ボアゴべやガポリ のだという考えが浸みこんで、文壇小説には無関心だ「たが、こオが多く、推理的要素よりプロットの展開のおもしろ味を狙「た の作品に接して、これなら日本の小説も好きになれると、ほとんサスペンス小説に近か「た。廿二年には涙香自身が、はじめて創 ど狂喜した。 作の名に値する「無惨」を刊行したのだが、翻案物の名声に隠れ その後の谷崎の推理怪奇的傾向の作品が刺戟となり、その影響て、後を続ける意欲を失ったらしい。泉鏡花らの硯友社作家の粗 を受けた乱歩や横溝正史らによって、後年日本にも推理文壇が確製濫造品に読者は欺されなかったにしても、「無惨」の欧米流の 骨格を具えた作品もまだ歓迎されるには、早すぎたのである。 ドイレ、フリー 三十年代から大正初期にかけて、ポー ルブラン、ルルウなどが紹介されているが、訳者が「推理」の妙 1 味を理解しなかったために、単なる探偵譚に終ってしまった。 その頃谷崎はポーやドイルを耽読している。その関心がいっ頃 に由来するのか知らないが、一高の英法科に入学したのが二十歳 神号 人月で、英文科に転じてそこを卒えたのだから、恐らくはその間に親 年 しんだのだろう。 正 大 明治四十四年の「秘密」の主人公は、「秘密と云ふ物の面白さ を、子供の時分からしみる、、と味はって居た」ので、浅草の近く、 六区と吉原を鼻先に控えた横丁の、淋しい廃れたような区域のお
の内でも、先生の生涯持ちつづけていられた少年の情感とでも名 いる人間の姿をみた。あれはたしかにお染だったに違いないとい づけたいものが、母体になって発展した作品の一つだと思うけれうのが終りであった。この作品も、言「て見れば、谷崎先生の女 ど、「今昔物語」にでもありそうな人間と獣の交り合う妖異な説性の肉体賛美の一変型なのだけれども、怪奇な物語が極く自然に 話が大変リアルな形式で物語られているのが珍しい 語られ、いかにも明治の東京の花柳界に実在した話のように感じ 舞台はたしか葭町の花柳界で、日本橋界隈の何げない狭斜の巷させる面白さに特殊な味わいがあった。 にお染という若い美しい芸者がいる。お染は売れっ子で人柄もよ 「二人の稚児」と「兄弟」も、私の愛読した作品である。いずれ もい旦那もついているのだが、ある時、猿まわしの連れてい も王朝を舞台にとっているが、前者は純然たる架空の物語であり、 た猿に突然、飛びつかれたことがあって、その後、猿にまつわら後者は「栄華物語」や「大鏡」を根にした歴史小説である。この れるようになる。猿は、お染の行く先き先きに影のように附きま流れは、「源氏物語」のロ語訳を通して、戦後の傑作「少将滋幹 とっているが、周囲の人は気がっかない。 の母」へつらなって行く系列のものであるが、私は、「兄弟」の 唯、お染自身がだんだん陰気になって行き、自分でも愛してい 中の王朝貴族の血で血を洗う政権の争奪が、美しい女御の生涯を るパトロンからの身受け話にもはっきりした返事をしない。そう簡潔に描いた優雅な絵巻きの中に巧みに封じこまれているこの作 して、最後に姿を消してしまう前にお染が告白したことは、例の品を、今でもこよなく愛している。芥川龍之介の王朝物と趣きを 猿が始終自分につきまとっていて、毎夜のように寝ている布団の異にしながら、所謂歴史小説にないかぐわしい気韻を漂わしてい ( 作家 ) 上に来て、かき口説くというのである。どうぞ自分と一緒に逃げる作品である。 てくれ、そうでなければ自分は必ずあなたの愛している人をとり 殺してしまうと猿は訴える。お染はそれを厭わしいと思うが、恐 ろしくもあって、どうすることも出来ない。そうして結論として 谷崎の推理怪奇小説 は、私のような気持ちの弱いものは猿のいう通りになってしまう のではあるまいかとお染は語るのである。それから間もなくお染 中島河太郎 の姿が葭町から見えなくなった。 いろいろな取沙汰があって、お染の旦那は熱心に行方を探した 昭和廿二年十一月十七日に、江戸川乱歩は潺湲亭を訪れた。 が、どうしても見つからなかった。それから大分経った後、やっ 少年時代から推理小説の魅力に憑かれていた乱歩にとって、大 ばりお染の客の一人が芸者や待合の女将を連れて、塩原の温泉へ正の初期の読書界には絶望していた。押川春浪や三津木春影のも 行ったとき、山を歩いていて、谷を隔てた遠くの峰に猿と一緒に のは子供相手であって、しかも翻訳か翻案であった。トリックと ワ 1
たからと云って、年玉の取ってあったのをくれた。その時分の金 で二円だったと覚えているが、私は大喜びで翌日早速学校の帰り に神田の中西屋まで行き、そこで、憧れの『女人神聖』を買って、 勇んで家へ帰って来たことを覚えている。 後年、谷崎先生にお眼にかかるようになったとき、作品の話に 円地文子 なると、先生は極く初期のものと、中期以後のものはいいが、 谷崎閹一郎全集第五巻の目次を見ると、私は懐しさに気もそぞ頃のものが厭だと云われ、その中にこの時代の作品を繰人れてい られた。「女人神聖」が先生の生前の新書判全集に人っていず、 ろな感慨を催すのである。 それは恰度私が女学生時代に谷崎先生の作品を貪りよんだ頃に今度の全集に収められたのも、大方そういう事情の為であったの 当るので、短篇集『二人の稚児』『金と銀』や、長篇『女人神聖』であろう。 この集に集められた作品には、「人面疽」「人間が猿になった などはいずれも乏しい小遣いを割いて、神田の本屋へ飛んで行き、 話」のような怪異談の傾向の強いものと、「前科者」「白昼鬼語」 買って来たのであった。 「女人神聖」は「婦人公論」に連載されたものであるが、そんな「金と銀」のような推理小説的な傾向のものが重なっている。 ことはずっと後に知ったので、赤い和紙の美しい装釘の本を店棚第一の作品群は後の「美食倶楽部」や「天鵞絨の夢」を通して、 に見つけた時から、欲しくて欲しくてたまらなかったが、その頃「白狐の湯」「白日夢」あたりで他の系列に流れ入って行き、第二 の山ノ手の家庭では女学校へ通う女の子に小遣い銭を多く持たせの系列は「途上」「黒白」を通して、これも後年には「武州公秘 る習慣がなかったので、私は可成り長い間指をくわえて、空しく、話」のような特異な作品の中に溶解して行ったように見える。 書架に並んでいる『女人神聖』を横目で睨んでいた。ある時、祖余り多くの人に読まれていないようだけれども、私はこれらの 父の家に何かの用で行ったら、年始の時に、風邪ひきで来なかっ作品の中の「人間が猿になった話」を愛読した。これは谷崎文学 公中公集 若き日に愛読した作品 月報 5 昭和年 3 月 〈普及版第五巻付録〉 目次 若き日に愛読した作品 谷崎の推理怪奇小説 回想の兄・潤一郎 4 三代文壇小史 5 第五巻後記 円地文子 : ・ 中島河太郎・ : 2 谷崎終平 : 三好行雄 : ・ . り 1 中央公論社 東京都中央区 京橋 2 ー 1